忘れていないよ、エカテリーナ〜最終章.....かな?
2012年 02月 18日
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すっかりご無沙汰のエカテリーナ.グルデーワのお話。
前回の話はこちらから
今日が最終章です。
パートナーのセルゲイの肩の故障、身体が大きくなり思うようにジャンプが飛べなくなったエカテリーナ。
優勝を当たり前の様に求められる中で、以前の様な演技を続けられなかった二人は、プロに転向する事を決心し,エージェンシー会社のIMGと2年の契約を結びます。
二人がプロに転向して一番困った事が今までの様の組織的なサポートを受けられない事でした。
練習のスケジュール、バスの時刻表、就寝時間,フライトチケットの手配。
今までは言われていたように動いていれば試合会場に連れて行ってもらえたり、製氷したての氷で当たり前のように練習ができていました。
しかしプロになった事でこれら全ては二人で行なわなくてはいけません。
特にセルゲイは英語が苦手だった事もあり、アメリカを中心に活動していた二人の日常の事や、いろんな人とのコミュニケーションはエカテリーナが一手に引き受けないといけませんでした。
新しい環境で、不自由な英語を使って生活する。
これは私も経験しましたが、ストレスもかかりますし、当たり前の様の事が普通に相手に伝えられないもどかしさ。すごく落ち込む事も沢山あります。
自分が何もできない人間の様な惨めな気持ちになってしまうのです。
二人はアイスショーやプロの世界選手権に出場しながら、大きな決断を下します。
1991年の2月、セルゲイは肩の手術をアメリカで受ける事にしたのです。
セルゲイの肩は悪化の一途をたどっていき、リフトどころか、肩を下にして眠る事すらもできなくなっていました。
プリンストン大学で行なわれたセルゲイの肩の手術は、関節今日を使用し、壊死した組織を取り除き超小型カメラで内部の様子を見てみました。
その手術中にちぎれた肩の回旋筋がみつかりました。
肩の状況はたいへんな重症でした。
1回目の手術の2ヶ月後、アメリカで2回目の手術を受けたセルゲイ。
そのすぐの4月20日国によって正式な結婚式をした二人。
そして4月28日には教会での挙式。
結婚式にはたくさんのスケーター達が駆けつけました。
結婚式からわずか2週間後には、セルゲイの肩の調子もだいぶよくなり、5月半ばにはトム.コリンズのツアーに,その後はタチアナ.タラソワこトーチ率いるオールスター.ツアーで南アフリカを旅する二人。
1991年のプロの世界選手権の二人の様子や滑りをごらんください。
そしてすぐにエカテリーナは身体の変化に気がつきます。
食べ物の臭いに敏感になり、大好きだったコーヒーさえも飲めなくなり。
そう、彼女は妊娠したのです。1992年の1月の事でした。
しかし彼女は妊娠に戸惑い、身体の変化にスケーターとしての不安を感じます。
「1年もショーに出演できないだなんて。もとのように滑るようになるのかしら」
結局彼女は妊娠中もショーに出演し!(なんと言うスポ根)、その夏にはモスクワで穏やかな日々を過ごします。
この頃にはエカテリーナも気持ちが落ち着き、満ち足りた気持ちでベビーをむかえる準備ができたのか。
きっと最初の頃の彼女は軽いマタニティーブルーだったのでしょうね。
次に彼女の心を悩ませたのが、ベビーをモスクワ、もしくはアメリカのどちらで出産するかと言う事でした。
さらに出産の方法にも迷います。
小柄なエカテリーナには帝王出産を進める人が多かったのですが、帝王出産だと産後の身体の回復が遅れ、ショーに出演できるのが遅くなると言う事から、自然分娩を選ぶ彼女。
さらになるべくすぐにショーに出演する事を考えるとアメリカでの出産が一番だと決断します。
やっぱ小さい頃から英才教育で才能を磨かれ、トップアスリートとして常に第一線にいたエカテリーナ。気合いが違います。
あんな華奢でお人形さんの様な見た目なのに、心が男前。
ここのところ、真央ちゃんにも通じるよなぁ。
第1子の女の子.ダリアを出産後、ロシアからお母さんが手伝いに来てくれます。
そしてなんと産後12日後にはトレーニングを開始するエカテリーナ。
産後19日後には氷上での練習を開始します。
あぁ、恐ロシア。スポ根。
産後12日なんて普通はそんなに動けませんよ。
1ヶ月後に始まるアイスショーのリハーサルに参加する事を決心します。
二人は毎日8時間の練習をし、3回転ツイストの練習も再開しました。
その秋に、二人はアイスショーに出演し、さらに12月にはプロの世界選手権に出場し優勝。
なんと産後3か月に世界チャンピオンになったのです。
やっぱすごい人です、エカテリーナ。
そして産後すぐだなんて思えないスタイル!
そしてその後すぐにタラソワコーチと師弟関係を解消します。
タラソワコーチがプロデュースしていたスペインでのツアーが何らかのトラブルに巻き込まれたようで、二人は他のショーに出演を決めたため、2年ほどでタラソワコーチとは離れる事になりました。
ただエカテリーナはタラソワコーチの仕事の進め方にはたいへん敬意を払っています。
「もう疲れて足が動かない」とセルゲイが訴えても、タラソワコーチはセルゲイをうまくのせて気持ち良く練習を続けさせるのだそうです。
タラソワコーチには振り付けを行なう前からイメージがすでに出来上がっていて、新しい動き、新しいステップ、たくさんの素晴らしい技術を教えてもらったのだとか。
プロの選手はアマチュアの試合やオリンピックには出場できない決まりとなっています。
しかし1994年のリレハンメルオリンピックはプロスケーターへ門戸を開く事になりました。
こうして二人はオリンピック出場へ向けた激しいトレーニングを開始します。
そしてタラソワコーチにつくようになってからはなれていたマリナ.ズエワさんと再び一緒に仕事をするようになりました。
マリナ.ズエワさんが二人のために選んだフリーの曲は
ベートーベンのピアノソナタ『月光』
マリナ.ズエワさんが二人とはなれて、さらに拠点をカナダにうつした頃からずっと二人のためにと温めていてくれた特別な曲。
特にセルゲイがとてもこの曲には強く反応を示し、こう言う事は彼にしては初めての事だったそうです。
この曲は二人の今までの歩みを凝縮した二人そのもののプログラム。
以前二人が滑った「ロミオとジュリエット」は恋の曲ですが、この「月光」は本当の人生を経験した大人の曲だともエカテリーナは言っています。
人類全ての母である女性を男性が祝福するものだそうです。
プログラムを手にし、二人は今までにないほどの激しいトレーニングを始めます。
旧ソ連時代にはなかった陸上トレーニングと氷上トレーニングを平行して行なったようで、それはオリンピックまで8ヶ月を切った二人には、急ピッチで仕上げていかなくてはいけない課題でした。
アマチュア復帰後にはスケートカナダ、カナダナショナル、そしてヨーロッパ選手権に出場し、全て優勝。
そしてついにリレハンメルオリンピック。
カルガリーオリンピックでただ滑ることだけを考えていた少女だった16歳とは違い、自らが選び、厳しい環境に自分達を追い込めた二人の演技、ごらんください。
テクニカルプログラム『フラメンコ』
そして渾身の演技フリープログラム『月光』
芸術的にすぐれた二人、そして技術的に完璧だったナタリヤ・ミシュクテノク & アルトゥール・ドミトリエフのペア、判定が分かれるところですが、彼らの芸術性が認められ2度目のオリンピックチャンピオンとなります。
私のお気に入りは二人のエキシビジョンの演技。
プレッシャーから開放され、金メダルを獲得し、満ち足りた気持ちで滑るすがすがしう二人の演技をごらんください。
うっとり。本当に良い演技だと思いませんか。
演技前に見つめる二人。競技中では見せないエカテリーナの恥じらう表情。
愛よねぇ〜愛。
こんな幸せの絶頂にいた二人に突然の悲劇が襲いかかります。
...........やっぱり長くなっちゃった。
と言う事で最終章はまた次に持ち越す事に。ごめんなさーい。
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